―― つまり、「嫌消費」は経済環境への対応であって、なんというか「歴史的な必然」じゃないと。
荻上 そうです。印象ですが、最近では「若者の××離れ」といった報道をメディアがするたびに、「なら金よこせよ」という、とても「正しい」反応をする人が増えたように思います。生活的実感がベースになってきたのでしょうか。事実、「若者の××離れ」といわれるものの多くは、本当は「××の若者離れ」といったほうがいいように思います。「××」を消費し難いような状況、手の届かないものになっているわけですから。
「嫌消費」「××離れ」的な説明って、いかにも「物語的発想」という感じがしますよね。人々の行動が変わったのは、コミュニケーションスタイルやライフスタイルが変わったからだ、そこには何かしらの世代的変化があるからだ、と。それも、何でも心的要素に還元して説明しようとする、悪しき習慣です。それでは、原因と結果を取り違えてしまう。
例えば、「80年代末に社会の『大きな物語』が喪失し、共通の期待や将来の予測も付きにくくなった。そうした中でみんなが追いつけ追い越せみたいな形で競争したりするより、自分だけのミニマムな、村上春樹の言葉で言えば『小確幸』の世界観みたいなのを構築したほうが幸せになれると気づいてきた。それが、価値観の分散や、消費のタコツボ化・小粒化につながっている」というような、段階発展論的な「物語」を聞いたことはありませんか?
―― とてもよく聞きますね。自分で言ったこともあったかも。
荻上 ですか(笑)。こうした精神史のすべてが誤りだとまでは思いませんが、「消費」という経済的な現象を分析するんだから、お金の話、経済環境の変化の話をしないのは不恰好な議論だと思います。経済状況が人のマインドと連動していると考える方が、「対策」についての議論にもスムーズに移れると思うんです。
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